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2024年7月30日(火)   中山道 福島宿 
 梅雨明け以降、最高気温が35度を越える猛暑続きの7月であるが、本日は雨も予想される曇り空で気温も30度を少し越える程度との予報のとおり、6年ぶりの木曽福島駅に降りると、暑さを微塵も感じさせない木曽路の緑を含んだ空気に包まれる。
 6年前の中山道歩きのときは、夕方近くに福島宿に到着したため、乗車予定の電車の発車時間が気になり、また20数キロメートル歩いて来た疲労も加わり、慌ただしく宿場を歩きぬけてしまった。本日は4時間弱の時間をかけてのんびりと江戸時代の面影が残る上の段地区、日本遺産の福島関所、その関守を務めた山村氏の代官屋敷を中心に見て回る。
 木曽福島駅から坂道を下って江戸に向かって進むと、坂を下り切ったところに左を流れる八沢川に架けられた中八沢橋がある。この橋を渡ると、福島宿の上の段への上り坂となる。坂道はすぐに突当り、左に曲がる。その角の右側に、江戸時代中頃に掘られた井戸がある。昭和の中頃までは住民の飲料水として利用されていたというが、現在は水も涸れたようで使われていない。江戸時代に中山道を旅する人にとっては冷たい井戸水は何物にも代えがたい甘露であったと想像される。
 突当りを左に曲がり上って行くと、すぐに突当り、今度は右に曲がる、いわゆる桝形をなしている。右に曲がると平場となり、戦国時代に引かれた用水が流れ込む古い水場からは未だに水が二筋勢いよく流れ出している。上の段に建つ家数は多くないが、宿場では当たり前に見かける、間口が狭く、奥行きの長い敷地となっている。敷地と敷地の間に通る路地は細長く奥に続き、敷地の特徴を目の当たりにし江戸時代の町屋の面影が伝わってくる。 

木曽福島駅前には観光客の姿が見受けられる。今にも降りだしそうな厚い雲

上の段絵図

上の段の西の入口。地元の方と思われる年配の男女が買い物の帰りなのか話ながら坂を上って行く

江戸時代の井戸

上の段の家並みと古い水場

上の段の狭くて長い路地となまこ壁の土蔵
路地の突当りが大通寺

  上の段の平場の道は突当り、右に曲がり、下り坂となり、その角にも水場があり、あふれた水が坂道の側溝を流れ下って行く。上の段は用水路が整備され、旅人にとってはかけがえのない清らかな水に恵まれた土地柄といえる。水場の隣には江戸時代の高札場が復元され、宿場の雰囲気を醸し出している。高札場を過ぎると、下り坂はすぐに突当りとなり左に曲がり、更に右に曲がると宿場に中心に入っていく。中山道歩き以来、改めて上の段を歩いてみて家数は少ないものの、道を桝形に整備して大名が宿泊する本陣を守る宿場づくりが行なわれていることを実感する。
 時刻は12時を過ぎており、見物は後回しにして、福島関所の手前にある、事前に調べておいた「鳥鎌」で昼食とする。名物が山菜釜めしとあったためそれを注文し、炊き上がるまでの時間を無駄にすることはないと、ビールで喉を潤す。毎日が日曜日の身に許された至福のひと時を十分に堪能して腹ごしらえを済ます。しかし、会計の女性から食事中に雨が降り出したようですと言われ、傘をさしての散策再開となる。

上の段 水場

上の段 復元された高札場
 
 雨の中、宿場内の道から右に分岐する急な坂道を息を切らせながら登り、受付で山村代官所との共通券を購入する。中山道歩きのときは時間がなく、通りすぎただけであったが、国の史跡に指定されている福島関所をゆっくり見物する。関所の上番所には、代官山村家の家紋が描かれた幕が架けられている。
 福島関所は、東海道の箱根、新居、中山道の碓氷に設けられた関所とともに四大関所のひとつに数えられているため、旅人はこの番所前で手形を見せ、厳しい取り調べを受けて通行が許されたわけである。役人が控える上番所の壁には、刺股(さすまた)、鳶口(とびくち)、槍、火縄銃などの道具が架けられ、関所破りなどへの備えが見て取れる。江戸時代の旅人がどういう思いで関所に向かったかは分からないが、4つの関所の構えを改めて見ると、江戸側と京側にそれぞれ門を構え、高い柵や塀で囲われた関所に入る時には、何もやましいところがなくてもさぞかし緊張したことと想像される。
 

福島関所のジオラマ。関所は木曽川の左岸に設けられ、江戸方向から大名行列が関所に入ろうとしている。関所を抜けると福島宿の家々が軒を並べて建っている。関所のところから橋が架けられ、右岸にも山村代官所をはじめとする家々が建ち並んでいる。 

福島関所 上番所建物 

中山道 福島関所西門
周囲には高い柵がめぐらされている

中山道 碓氷関所西門
石垣の上に関所が設けられている
 東海道 箱根関所東門
江戸から来た旅人は坂を下って関所に入る
東海道 新居関所西門
中山道の2関所の門に比べて立派な構えの門である
 

福島関所 上番所内部
 

上番所から見る西門 
 
 見学を終えて関所の建物でしばらく雨宿りをするが、雨足の収まる気配が感じられるため、帰りの電車の制約もあることから意を決して、受付の女性に興禅寺への道を確認して西門を潜り、関所橋を渡って右岸に出る。坂道を上って行くと、左側に萬松山興禅寺と刻まれた石柱が建っている。本堂に向かって一直線に続く参道の両側の苔むした石垣、雨に濡れた樹木が辺りの静寂と相まって、禅寺の趣きを引き立てている。厳粛な気持で参道を歩いて行くと、重厚な構えの勅使門が建っている。興禅寺は源氏の武将・木曽義仲を初代とする木曽氏の菩提寺で、承享6年(1434年)に12代木曽信道によって義仲の追善供養のために開基された臨済宗の寺である。墓地の一画に、木曾義仲の墓が12代信道と18代由義昌の墓とともに祀られている。因みに、福島宿のひとつ江戸寄りの宮ノ越宿辺りで、木曾義仲は平家討伐の旗を挙げたといわれ、この辺りは木曽義仲を始祖とする木曽氏の本拠地である。
 

勅使門

木曽義仲の墓石(中央)、12代信道(右)、18代喜昌(左)
 
 興禅寺から木曽川右岸に沿うようにして山村代官屋敷に向かうにつれて、雨は上がってくる。
 山村氏は木曽氏の重臣であったが、関ヶ原の戦では東軍に味方して戦功をあげ、徳川幕府の旗本に取り立てられて福島関所の関守に任じられるとともに、この辺りの中山道沿いに知行地を与えられる。その後、木曽地域がすべて尾張藩の所領となったため、関守の役はそのままで、合わせて所尾張藩の家臣として木曽代官を13代にわたり務めて明治維新を迎えることになる。江戸時代を通じて木曽の支配者の地位を守った名家である。小説「夜明け前」の主人公である馬籠宿の本陣を務める青山半蔵が、木曽路のほかの本陣主とともに助郷の軽減、山の管理などの問題が起こると、しばじしば山村代官所に出向き、嘆願する様子が描かれているが、山村家が木曽路における絶対的な権力者であったことがかわる。
 30棟余りの建物からなる山村代官屋敷の敷地のほとんどは福島小学校となってしまったが、往時の敷地の広さを示すように、東門にあった石垣の一部が現存している。東門跡から70~80メートル進むと、現在は資料館になっている山村代官屋敷に出る。門を潜って敷地に入ると、左側に山村家は稲荷信仰の家柄ということで、稲荷社が祀られている。30数棟あった建物の大部分は明治時代になると取り壊されてしまい、享保8年(1723年)以降に建築されたと推定される看雨山房(かんうさんぼう)を中心とする数室からなる建物が、城陽亭と呼ばれる資料館として建っている。各居室の前を長い廊下が通り、寛政12年(1800年)に造園された庭園を見ることができるように配置されている。看雨山房は第12代良祺(たかのり)の書斎で、襖(ふすま)などには良祺と交流のあった学者たちの書画が貼り付けられている。看雨山房の看雨山房の正確な意味はわからないが、雨に煙る山を見る部屋と単純に理解すると、廊下からは庭園の雨に濡れた築山をみることができ、無造作に書画を貼り付けた、動的な印象を受ける看雨山房の室内と対照的な景観をなしている。
 第9代山村良由(やまむら たかよし、1742~1823年)は学問、文化、芸術を愛する当主であったようで、号を蘇門と称して当時の文化人と交流し、自らも詩作、書画を行ったという。館内には、金鶏と牡丹を描いた2福の掛け軸が展示されているが、お殿様の描いた絵とは思えない出来栄えである。現在行方不明といわれる木造座像の写真に写る蘇門の容貌は、厳しさとともに理知的で包容力を感じさせる柔和な表情をしており、存在感がある。
 山村氏は代官職を務めた家柄ということで、テレビの時代劇の影響ではないが、傲慢な役人という先入観を持っていたが、天明の飢饉に際して被害を最小限に止める等治世に務め、木曽地方の文化、学問の発展にも貢献した為政者であったようである。
  

山村代官屋敷 東門跡の石垣

山村代官屋敷 石垣は往時のままのようである

稲荷社

 城陽亭玄関

城陽亭建物内部と庭園

看雨山房
          


第9代山村良由の木造座像
木造座像は行方不明で、幕末に撮影された写真

        
山村蘇門が描いた掛け軸
 
 山村代官屋敷の見学を終えて本日の目的を達成したため、雨も上がりのんびのと木曽福島駅に向かう。途中に店を構えている七笑(ななわらい)酒造に立ち寄り、熱燗でうまく飲める辛口本醸造・七笑の4合瓶を購入する。上の段に戻り、電車の時間まで余裕があるため、先ほどの狭い路地の先に建つ大通寺に寄り道する。路地を辿ると、宿場で多く見かける、間口が狭く、奥行きの長い敷地の奥行きの長さを実感することができる。
 安永7年(1778年)建立の山門は二階に欄干を廻らせた重厚な鐘楼門である。重厚さの半面、トップヘビーで地震による被害が心配であるが、約二百五十年ものの間無事に建っているわけであるから、大したものである。
 
七笑酒造
明治25年(1892年)創業
 
大通寺 鐘楼門



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